『松明は自分の手で』スーパーカブ STORY

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1954年の倒産危機を乗り越えた2年後、本田宗一郎と藤沢武夫は、ヨーロッパ行きの飛行機の中にいた。大きなつまずきを経て、これからのHondaを見つめなおす旅だった。

出会い当初『もう話すことは何もない』と本田が言うほど、Hondaのあるべき姿を、来る日も来る日も話した二人だが、片道72時間、これほど長い時間一緒にいることは、それ以来のことだった。

開発・生産の本田、営業や経営は藤沢、二人には、それぞれの領域に口出ししないという約束がある。

しかし、藤沢は本田の顔色を見ながら、こう切り出した。
『自転車に取り付けるタイプではもうだめだ。ボディ一体型の50CCをつくれないか。』
しかし、本田は小さなオートバイに興味を示さない。

隣の座席で本田が目覚めると、藤沢はまた話しかけた。
『誰にでも手の届く50CCの小さい底辺の商品をつくってくれ。底辺がない限り、うちには将来の繁栄がない』

機内で『うるさいなぁ』という顔をしていた本田だが、ヨーロッパの街に着くと、
次々に小さなオートバイを指さした。『あんたの言うオートバイはああいうやつか』

藤沢は、次々に首を振る。『違う』『全然違う』『あんなのダメだ』

『どこにもないものを、あんたにつくってほしいんだ』

本田 宗一郎の頭の中で、
人々が嬉々として操る、世界中のどこにもないモビリティのイメージがぐるぐると回り始めた。

自動車企業の中には、前を行くものの灯りを頼りに、ついていく生き方をする会社もある。
しかしHondaは、たとえ小さな松明であろうと、自分のつくった松明を自分の手で掲げて、
前の人たちには関係なく好きな道を歩んで行く企業とする ~藤沢 武夫

どんなに苦しくても、自分たちの力で道を切り拓いていく。
本田 宗一郎・藤沢武夫が考えたHondaのあるべき姿が、この『松明は自分の手で』の哲学だ。

日本に帰国した本田宗一郎と若い社員たちは、燃えていた。
世界中のどこにもないものを、自分たちの手で創る!
乗る人の喜びを考え抜き、様々な独創的なメカニズムとデザインを次々と創出して行く。

『本田さんが、床に図を描き始めると、何だ?何だ?とすぐに人だかりができた』
『そのうち誰かが口をはさむと、後はもう部署も担当も関係ない。みんながてんでに意見を言い始める』
『そういう中で、徐々にアイディアが形になっていった』
本田は、よく“みんなして考えてくれ”と言っていた。
スーパーカブはまさに“みんなして”力をあわせてつくったクルマだった。

ヨーロッパから帰国した1年後、1957年12月。
藤沢は研究所で、今までに見たことのない美しいモビリティの模型を見せられる。
世界中のどこにもない、そのモビリティは、藤沢を驚嘆させた。

そして、直感した。
『この二輪車は、間違いなく日本のオートバイ市場を一変させてしまう』

そして、どこにもないものを、自分たちで考え、自分たちの手で創るという
『松明は自らの手で』の哲学は、Hondaの社員たちに染みこみ、
スーパーカブと共に、夢を次々と叶えてゆく。

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